この物語は「人間賛歌」である。逆境にあっても必死にあるいは逞しく生きようと
する人々を描き、その中でも、最も困難な境遇で人の慈愛に救われ、正しく生きる
ことを決心した主人公を中心とする物語である。

宗教的訓話の側面がありながら、胡散臭さも説教臭さもないのは、人間や社会の醜い
部分を一方的に批判するのではなく、そういう負の部分もあるけどそれでも人間は
素晴らしいと賛美しているからである。まさにこの物語の魅力そのものだ。

宗教的というのは、テーマの一つとして『愛と贖罪』を取り上げている部分だ。
レ・ミゼラブルは宗教をテーマにした物語であり、ジャン・バルジャンという聖者の
人生の物語であると解釈することもできる。


キリストの教えで言う愛とは、神が人類に下さる愛のことで、見返りを求めない
「無償の愛」だ。わかりやすく言えば、その人のためになる行動やその人の幸せを
願う気持ち、と言い換えることができる。

この物語で描かれる愛でわかりやすいのは、冒頭の司教様の愛だろう。
司教様の愛に触れ、自らも正しく生きていこうと決心する主人公ジャン・バルジャン。
まさに宗教が本来果たすべき役割を描いているシーンだ。

主人公のコゼットへの愛も美しい。原作ではマリウスへの嫉妬も描かれるとのことだが、
最終的には娘の幸せを願う父親としてすべきことを全て果たし、マリウスに託した後
身を引く決断をする。愛を貫いて人生を終えるなら幸せであるという姿を描いているわけだ。

もう一つわかりやすいのは、エポニーヌのマリウスへの愛だ。あの悪党テナルディアの娘
とは思えない健気さと純朴さをマリウスに対して示す。そしてマリウスの幸せを願うあまり、
命を落とすことになってしまう。嫉妬や憎しみにはとらわれない愛の姿がここにある。


時として愛とは相容れないこともある「法」も、この物語では重要だ。
そもそも、お腹をすかした子供のために主人公がパンを盗んだことがこの物語の始まりだ。
「子供を思う愛が法を犯すことになるなら、正義はどこにある?」という問いかけも、
人と社会に関わる永遠のテーマだろう。

その法を具現化した存在が、もう1人の主人公ジャベールだ。慈悲や愛よりも法を絶対視
することで、正義を実現しようとする。しかし、ジャン・バルジャンのしてきたことに
触れるうち、法よりも大事なことがあるのではないかと疑問を感じるようになった自分
を許せず、神が禁じている自殺を行ってしまう。極めて象徴的なシーンだ。

西洋では、しばしば愛する家族のためなら法を犯してもよい、というプロットの物語が
作られるけど、そんな単純な問題ではない。パンを盗んで良いなら、盗まれたパン屋が
飢えて死んでも良いのか?ということになってしまう。娘への愛ゆえにファンティーヌが
堕ちていくことになるのは、いったい何が間違っていたのだろう。


そこで重要になってくるのが、もう一つのテーマ『贖罪』だ。自分の罪に気づき、
自分の生き方を変えようと努力し、犯した罪を償おうとすること。そうすることに
よって初めて人間は正しく生きることができるというのがキリスト教の教えだ。
「悔い改めよ、天国は近づいた」というのは聖書の一句だ。

ファンティーヌも自分の人生を振り返り、嘆くことでようやく救いを見出すことができた。
最後の願いは不幸にも叶わなかったが、信頼して娘を託すことができる人物に出会えたのだ。

そのジャン・バルジャンも、気付かなかったこと・意図したことではなかったこととは言え、
ファンティーヌを解雇し、不幸の原因の一端を作ってしまったことに気付いてしまう。
ファンティーヌのためにコゼットを幸せにすることが、彼の贖罪なのだ。

だからこそ、ジャン・バルジャンが死ぬ間際に司教様とファンティーヌに会うことは
必然なのだ。ジャン・バルジャンは彼ら二人からの赦しを求めていたのだから。

また、ジャン・バルジャンは赦しを与えるほうにも回る。ジャベールを解放した時に
かけた言葉は司教様が警官にかけたと同じ「職務を果たしただけだ」。
だがジャベールにとっての贖罪は、自らを罰することだった・・・


宗教の要素はまだほかにもある。

この物語の最大の疑問である、身分証も破り捨ててしまったみすぼらしい主人公が、
どうやって財を成し、市長に選ばれるまでになったのか、という点を考えよう。
銀の食器を元手にしたとはいえ、商売を始めるようになるには信頼が最も大事なもの
なのに、その信頼はゼロどころかマイナスからのスタートにも関わらず・・・だ。

「富める者はますます富を増やし、貧しき者は持っているわずかな物でさえ失うだろう」
と言うが、じゃあ貧しき者はどうすればいいのか?答えは、同じ聖書にある。
「求めよ、さらば与えられん」

これは施しを請えという意味ではない。得られるよう最善の努力を尽くしなさいと
いう意味だ。これは日本にも同じ意味の諺がある。「人事を尽くして天命を待つ」

愛に目覚め、今までの自分から生まれ変わろう・正しく生きようと決意し、努力を続けた
聖者には、神の祝福が与えられ、天運にも恵まれたということなのだろう。


しかし宗教的訓話らしくないところもある。

この物語の悪役ティナルディエだ。通常寓話などでは、欲深い悪役は罰が当たったり、
自らの欲で身を滅ぼしたりするのが一般的だ。物語の読み手にも「ざまあ見ろ」的な
カタルシスを与えることができるので、演出としてもしばしば用いられる。

ところがこの物語では、そのような手法は用いられてない。原作ではティナルディエの
その後についてどう描かれているのかは知らないが、ミュージカル版ではむしろ滑稽で
憎めない悪役のように見える。

それは、その欲深さのおかげでマリウスに真実が伝わるのを手助けする、という重要な
役割を果たしているからだ。禍福は糾える縄の如しというが、何が良いことで何が良く
ないことかは一見しただけではわからないということを伝えているとも解釈できる。
欲深い人間でも社会では何らかの役割がある、と言ったら言い過ぎだろうか。

そして何より、テナルディエも「逆境にあっても逞しく生きる人々」の1人なのだ。
自分を省みず、愛や贖罪からは程遠いこの人物も、この物語を魅力的にする要素の
一つなのだろう。

コメント

Gold Experience
2013年1月11日1:43

自分はLes Mizのためにロンドンまで行ったくらい大好きです!
25周年で演出変わる前に見に行けてよかったです。
小説は小説で、ミュージカルはミュージカルで、映画版は映画版で、それぞれ素晴らしかったと思います!

あの作品に出てくる人間は立場が真逆だったり境遇は対照的だったりと、様々な人間が登場しますが、そのどれをとってもその生き様に純粋な心からの賞賛を贈らざるを得ないと感じてしまいます。

ガ0-
2013年1月11日20:11

G.E.さん、熱いコメントありがとうございます!

自分もミュージカル観て、レ・ミレ好きになりました!
単純な善悪論ではない、それぞれの登場人物の生き様が素晴らしいですよね。
もう1回くらい観に行こうと思ってます~。

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